エッセイ「シルクロードを行く」

仏教東漸の道と崑崙の玉:前編(1)

2003/04/01更新

 シルクロードと言いますと、皆さんは何を連想されるでしょうか?私はすぐ砂漠を連想致しますが、而し砂漠と言いましても、実際には色々のタイプのものがあって一口には言えません…が大まかに分けると、一つには砂の砂漠 (砂ばかりに覆われた砂漠) 、次に砂と泥と石ころの混ざり合った“ゴビ”と言われる半砂漠 (このタイプのものが一番多い様ですが…) 。モンゴリアの中央部から南にかけてゴビというデッカイ砂漠があります。これは固有名詞として使われていますが、“ゴビ”半砂漠の代表みたいなものでしょう。それから、これは砂漠といっても大部分が褐色の風化した岩盤と瓦礫に覆われた、将に荒涼たる台地 (テーブルランド) です。これも“ゴビ”と呼ばれている様ですね。その外、地質がアルカリ土壌で、地下の塩分に覆われた塩の砂漠と言われるものもあります。これらの砂漠の共通点は、いづれも乾燥地帯で殆ど雨が降らないという事です。砂漠地帯の年間の平均雨量は80ミリリットル前後と言われますが、特に中国の新彊自治区のトルファン盆地なんか、1年間に12~3ミリリットルから多くても25~6ミリリットル程度の雨しか降らないこういう処では、たとえ雨が降っても乾燥がひどいので、雨が地面に届く前に途中で蒸発してしまいます。現地の人達は、これを乾雨 (かわいた雨) と言っている様ですが…。こういう事で、砂漠には雨らしい雨は降らない。ですから砂漠の人々は大きな川の近くか、氷河や万年雪を頂いた山々の雪解けの地下水をカレーズという独特の地下水溝に引き、その水を頼みに集落を造るかのどちらかです。これはカレーズの断面図です。左側は天山山脈、右側は砂漠の集落です。


 ここには天山山脈の雪解け水が地下水となって一ヵ所に集まった水源があります。 この水源を探り当てる為に大凡の見当をつけて立井戸を掘ります。深い時には100メートル近くになる場合があるそうですが、幸い1回でこの立井戸が水源に到着すればしめたものです。後は30~40メートルくらいの間隔でオアシス (集落) まで立井戸を掘り、これを地下で繋いで水を流す事になります。古来砂漠の人々は、これ等オアシスとオアシスを結んでお互いに行き交い、夫々の産物を交換する様になり、やがてこの砂漠の道は、オアシスから次のオアシス、又その次のオアシスヘと次第に遠くまで延長され、交易路として発展をしていく事になるのです。この様にして、紀元前3世紀頃には、東は中国の長安 (今の西安) から西は遥かイタリアのローマまで、キャラバンによる東西の交易路が開かれていた様であります。


 ここにラクダが歩いていますが、 (地図省略) このラクダの後を辿って行くと、これが東西交易路のメインルートでございますが、シリアのトリポリ、トルコのイスタンブールを経て、間違いなくイタリアのローマに辿り着くことが出来ます。この東西交易路がシルクロードと呼ばれる様になったのは、今から百年程前、ドイツの著名な地質地理学者のリヒトホーフェンが、中国の絹が運ばれた道という事で、シルクロードと言われたのが始まりと言われています。


シルクロードの概要についてあらあらお話しを致しましたが、このシルクロードの中の新彊ウイグル自治区のシルクロード、ここは中国の一番西の外れ (西端) にありまして、紀元前早くから中国の人々に西域と呼ばれてきました。この赤い線で囲まれた処が西域地方、即ち新彊ウイグル自治区ですが、この地図では小さくて分かりにくいと思いますので、大きい地図と取り替えましょう。これがその地図でありますが、赤い線で書かれたのが往年のシルクロード、黒い線は現在の幹線道路です。北に天山山脈、南を崑崙山脈が夫々東西に走り、西にパミール高原が立ちはだかり、東端 (ひがしのはし) を甘粛 (かんしゅく) 省の回廊に接して、そこにタリム盆地を形造っています。日本の全土がすっぼり入ってしまう程の広さがあると言われていますが、その80パーセントがタクラマカン砂漠で、現地の言葉でタッキリマカン、一度入ったら生きて再び出られないという死 (タッキリ) の砂漠 (マカン) を意味しています。紀元400年頃天竺 (インド) に経典を求めてここを渉った中国の僧法顕をして、シルクロードの中でも難所中の難所と言われたところです。この西域地方の一番東の玄関口に当たる処に、漢朝時代から唐朝時代には瓜州と呼ばれた河西四鎮の一つで、現在又安西 (あんし) と呼ばれている交通の要衝があります。この安西から敦煌、ここは莫高窟という石窟寺院で知られていますが、この敦煌を一歩出ると、もうそこは茫漠たる砂漠、ゴビ灘です。視野を遮るものは天と地が交わる地平線と、幻の様に消えては現れる蜃気楼くらいのものです。このゴビの砂漠を100キロメートル程西へ走ると、そこに前漢時代に建てられた、中国の絹と西域の玉の交易の為に催けられた関所、玉門関が一つの砂漠の中にポツンと孤影を落としています。ここを抜けてローラン、ミーラン、チャリクリク。この辺りは漢朝から唐朝にかけてギョウ善国 (ギョウゼンコク) と呼ばれ盛えましたが、西域南道と北道を繋ぐ交通の要衝であった為に、東西交易路上の権益を巡って、中国とこの地を自分の勢力下に治めようとする遊牧騎馬民族との間で血みどろの戦いが繰り返されたところです。


 ここからチェルチェン、ニヤ、ホータン、ヤルカンド、そして西域の西の玄関口カシュガルヘ。これを西域南道と呼びます。同じくこの安西から北ヘハミ。このハミは北のルートの東の玄関口、交通の要衝で、東方見聞録の中でマルコ・ポーロがカムール国の事として面白い記事を書いていますので、一寸覗いて見る事にします。 (東方見聞録省略) これを読みますと、ハミの女性がいかにも“ふしだら”な様に伝えておりますが、この様な行為はハミに限らずシルクロードのオアシスではあまり珍しい事ではなかったと言われています。これは砂漠の中のオアシスという厳しい自然の中で、旅人を頼って生きるしかないオアシスの人々にとっては、自然の成り行きでやむをえない事であったのかも知れません。これはその美人で浮気っぽい、ハミの女性の写真です。目元が涼しく、口元が引き締まってとてもチャーミングですね。このハミからトルファン、トクスンを経てコルラヘ、そしてコルラからクチャ、このクチャは古代には亀茲国 (キジコク) と呼ばれ亀茲の楽 (ガク) で知られ、我が国の宮廷の雅楽はこの亀茲の楽が基にあったと言われ、又正倉院の五絃の琵琶もこの亀茲国からもたらされたものと言われています。又、古代には仏教が興隆し、四世紀頃に出られた鳩摩羅什 (クマラジュウ) は玄奘三蔵と並んで仏典漢訳の第一人者として知られ、法華経を始め、私達に馴染み深い阿弥陀経、龍樹作の大智度論、十住毘婆論等数多くの経論を漢訳し残しておられます。又、ここにはキジル、クムトラ等の千佛洞を始め、多くの仏教の石窟寺院があり、敦煌の莫高窟と並び賞され、仏教興隆の昔が忍ばれます。このクチャからアクスを経てカシュガルヘ、これを西域北道と呼びます。この西域南道と北道はカシュガルでドッキング致しますが、ここから更にパミール高原に入り、ゲズ、プルンクル、スバシ、タシクルガン (石の塔) 等の集落を経て、ミンタカ峠か又フンジェラブ峠を越えて、古代の仏教都市ガンダーラ、カシミール、タキシラを経て、インドヘ。このコースはパミール高原道と呼ばれましたが、往年の仏教東漸の道のメインルートでございました。「部分省略」後もう2本のルート、1本は天山山脈の北部草原地帯を通っているステップルート、これは天山北路と呼ばれてきました。そしてもう1本のメインルートはカシュガルからテレダワン (峠) を越えて、中央アジアを経てヨーロッパに至るルートですが、残念ながらソ連との国際問題でまだ開放されていません。従って私はまだ通った事がありませんので、話はカット致します。以上が新彊ウイグル自治区のシルクロードのメインルートでございます。


※この文章は昭和60年頃に行った卓話をもとに作成したものです。