エッセイ「シルクロードを行く」

仏教東漸の道と崑崙の玉:前編(2)

2003/06/01更新

 一昨年、これらのルートが全線開放されるという事で、私もこのシルクロード全線走破の旅に参加をさせて頂き、昭和61年8月、足腰の強いランドクルーザー (四輪駆動車) での道無き道の厳しい砂漠の旅ではありましたが、それだけに又、私の一生の思い出になる素晴らしい旅になりました。私のシルクロードの旅は、仏教東漸の道の仏蹟巡礼が目的でありますが、特にこの時は、ここにホータンという西域南道の交通の要衝がありますが、このホータンは浄土三部経 (浄土真宗、浄土教系のお方はご存じでしょうが) 大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経、この中で観無量寿経は、インドで書かれたのではなく、インドのほか、多分このホータン地区で書かれたのではないかという事が言われて参りました。
その理由として、色々言われて来ましたが、その一つにこの観経のサンスクリット (梵語) で書かれた経典が見当たらないという事、そして梵語の経典が紛失した場合でもチベット語訳の経典は必ず残っていなければならないと言われていますが、そのチベット語訳の観経も残っていないという事から、近年特に仏教学者の方々の中で、この観無量寿経の成立をホータンとする説が高くなって参りました。この学説は、シルクロードの仏蹟を巡礼する私にとりまして、非常に興味深い事でございまして、観無量寿経という私共浄土教徒にとりまして大切な経典を生み出したホータンの風土に一度は是非接したい、自分の膚で直接触れてみたいという願望がありまして、その願を叶えたいという事が、この時の旅行に参加を致しました第一の目的でありました。それともう一つこのホータンは于てんの玉 (于てんというのはホータンの古名です) 、又崑崙の玉とも呼ばれますが、作家の井上靖先生も非常に憧れて、手に入れたいと願っておられましたが、素晴らしい玉の原石が採れるという事が古くから言われており、私も自分のこの手で、この于てんの玉を是非採集して持って帰りたいという、宝石コレクターとして、又ゼモロジスト (宝石学を学ぶ者) としての20余年の長い夢がありまして、この二つの願を叶えたいという思いで参加致しました事であります。


 こういう事で、61年8月4日新彊ウイグル自治区 (西域) のシルクロード全線走破の旅に出発致しました。先ず北京から新彊ウイグル自治区の省都ウルムチに飛びます。このウルムチは西域地方第一の大都会で、人口130~140万、政治産業経済の中心地で大変な賑わいを見せています。ここで飛行機を乗り換えて、ソ連製、双発プロペラ機のアントノフ24型機45人乗りでホータンに向け飛び立ちます。アントノフ24型機はエンジンをフル回転して、天山山脈の上空をいかにも重そうに尾根すれすれに、やっとの事で越えてコルラ上空に出ます。このコルラ上空から機首を右に向け、古代シルクロードに沿うて、その4000メートルの上空を西へアクスに向けて飛ぶのです。進行方向の向かって左側は死の砂漠と言われるタッキリマカン、タクラマカン砂漠が荒漠として果てしなく広がり、右手は天山山脈の山裾が風化の為に崩れ落ち、50~60メートルの切り立った断崖となって白い肌を露にして砂上に直立し、その足下の崩れ落ちた砂は、そのままタクラマカン砂漠となって広がり、その砂漠の中を古代シルクロードが黒い一本の帯となって西へ西へと走っています。飛行機は、このシルクロードに沿うて、砂塵に煙るその上空を悪気流の為左右に大きく揺れながら、クチャ上空を経て三時間程でアクスに着陸します。四十分程小休止の後、再び機上の人となり、今度は南へ機首を向けて飛び立ち、砂、砂、砂又砂の褐色一色の砂漠の上空を飛んで一時間、ホータン飛行場に到着します。このホータンは西域南道の西の外れに紀元前早くから交通の要衝として栄え、古名を于てんと呼ばれました。
又、このホータンは紀元後3~4世紀頃にはアショカ王と並んで、仏教のパトロン (大外護者) として知られたクシャン朝のカニシカ王の勢力が、この地に及び仏教の保護政策がとられた為、インド、ガンダーラ、カシミールを始め、バクトリア等の諸国から高僧方が多く集まって、仏教国として3~10世紀興隆致しました。この様な状況の中で、先程話にでました様に観無量寿経は、3~4世紀頃この地で編纂されたのではないかという説が伝えられています。又、法顕恵生、玄奘三蔵もこのホータンを訪れ、仏教が盛んであった様子を書き記しております。


 私達は到着した翌日の第1日目はお定りの中国側で立てられたスケジュールに従って、市内の絹織物工場や絨氈工場、幼稚園等の見学に引廻され、退屈な1日を過ごしました。機械化されたとはいえ、私達日本人の目から見れば詢にお粗末な代物で、しかも例の熱烈歓迎の行事には全くうんざりです。
次の日は自由時間を頂いて、ロバに曳かせる二輪馬車、私は勝手にロバタクと呼んでいますが、泥の中から出てきた様な“ドロンコ”の子供のドライバーが運転するこのロバタクで、気儘な市内の探訪に出かけました。ホータンは、どこを歩いてみても埃っぽい泥の街という感じで、往年の仏教国の面影は何処にもありません。砂漠の中に埋もれてしまったのですね。私は夕方、観無量寿経に説かれた日想観の落日を拝する為に、ロバタクを砂漠地帯に走らせ、砂丘にのぼりました。砂丘にのぼり佇むと、茜色に染まった砂丘が幾つも幾つも連なり、やがてそれが神秘な影を落とし、今丁度西の果ての地平線に朱盆の太陽がゆらゆらとゆっくり沈んでいくその荘厳さに、私は思わずお念仏を申し、合掌 (南無阿弥陀仏 々 々と) 。砂丘の上に座し、しばし西方浄土に心を寄せていました。帰途、たそがれた道をロバタクに揺られながら目を閉じ、目を開き、懸けん鼓くの太陽を脳裏に刻み、観経を誦しながらホテルへとロバタクを急がせました。
次の3日目、私達はグループで于てんの玉の採集にホータンの西の郊外にある白玉河 (ゆるんかしゅ) に出かける事に致しました。このホータンは東部を流れる白玉河、西側を流れる墨玉河 (からがしゅ) から上質の玉が採れるという事が紀元前早くから知られており、645年頃ここに滞在した玄奘法師の大唐西域記にも、クスタナ国 (ホータン) には白玉 (はくぎょく) や墨玉 (ぼくぎょく) が多く産するとあり、畑違いの和尚様の見聞にとまる程有名であったのだろうと思います。実は、この西域南道沿いに、1500キロメートルに亙って、崑崙山脈が東西に走っている、というより崑崙山脈の北麓を西域南道が通っているという方が妥当の様ですが、この崑崙山脈の北壁が無盡蔵と言われる玉の砿脈から出来ていて (砿物学的にはネフライト、軟玉と呼ばれるものですが) この玉の砿床が地殻の変動で崩れ落ち、低い処低い処に転げ落ちて、川の中に入ったものが7~8月の雪解けの増水期に流されて、オアシスの近くの川床に転石として集まったものを採集するのです。これはホータンに限らず、西はヤルカンドから東はチェルチェンまでの広い範囲で玉の転石が夫々のオアシスの川床から採集されるのです。中でもホータンの玉は、白玉河、墨玉河という大河がある為、数多くの玉の原石が採集される、又地理的にも交通の要衝という事もあって、一番よく知られていた様であります。


 私達は先ず、于てんの玉 (崑崙の玉) を求めて白玉河に走りましたが、残念な事に8月の増水期に加えて、上流で鉄砲水でも吹き出したのか、河は灰色の濁流が音を立てて流れていて、到底玉の採集どころではありません。川に近づく事すら出来ませんでした。止む無く玉の展示場に参りました。1階は玉の原石の買付所で、2階が玉の工芸品の展示場になっていて、階段を昇ると玉の工芸品が陳列してあります。私は于てんの玉の原石を手に入れるのが目的ですから、玉器には用がありません。実を申しますと、私は玉の原石を探して室内を見て廻りましたが、一向に目ぼしいものは目につきません。係の人に“最高の品質の玉の原石を見せてくれ”と言って持って来させたのが、この原石です。 (原石を回覧する) もっと上質のものはないのかと言いますと、今ここにある中では、この玉が最高だと言うものですから、あまり気に入りませんでしたが、かなり高い金を払わされました。見た目では石ころ同然のもの一つを馬鹿馬鹿しい様ですが、20年余りも手に入れたいと願っていた于てんの玉です。私にとりましては、それこそ宝の石です。千金を払っても求めたい宝玉です。この宝の石を懐に抱いて満足して帰って来た様な事であります。
実は今回の新彊ウイグル自治区のシルクロード全線走破の旅は、このホータンを起点として、これから始まるのですが、今日は時間の制約がありますので、これで終らせて頂きます。


※この文章は昭和60年頃に行った卓話をもとに作成したものです。