エッセイ「シルクロードを行く」

仏教東漸の道と崑崙の玉:後編(1)

2003/07/01更新

前回、仏教東漸の道のシルクロードを辿り乍ら、中国の西端新彊ウイグル自治区の一番西南の外れにあります、古代の仏教都市ホータンを尋ね、浄土三部経の一つ観無量寿経が編纂されたと言われるホータンの風土に接し、又このホータンで採集る有名な于てんの玉について、少しお話を聞いて頂きましたが、折角シルクロードの話を少し続けてほしいというご希望もありまして、この度、又仏教東漸の道と于てんの玉についてお話を続けさせて頂くことに致しました。


 御承知の通り、中国の玉工芸は世界に冠たるものがありますが、この中国の玉工芸の始まりは大変古く、紀元前5000年、今から7000年以前に溯ると言われます。それは、時代が石器時代から銅器時代に移り、石器の実用性はうすれましたが、人々は長い間人類の幸福に寄与したこの石器を捨て去るに忍びず、石器を記念して、これを祭器として尊び、玉で石器を模造して人類永遠の印としました。この様に古代には玉器は神聖なるものとして、祭器として崇められ、又皇帝の象徴として、壁、その他尊いものの象徴として (玉雨、玉座、玉音) という様な言葉が残っていますが、尊いもの、美しいものの代名詞に使われました。美しいものの代名詞として、玉杯、又特に玉の肌という言葉は、女性の美を讃える最高の言葉で、于てんの玉の美しさにちなんで用いられたものです。この“玉の肌”の玉の字は玉の板を三枚紐でつないだ象形文字です。この神聖なもの、権力の象徴として使われた玉は、やがて時代が下がるに従って、王侯貴族の間で宝飾用の玉としてもてはやされる様になり、これがやがて一般民衆の中で民族的思考として親しまれる様になります。中国が世界に誇るこの玉器の素材になる原石は、殆どこの新彊ウイグル自治区のホータンに採集る于てんの玉が使われていたと言われますが、中国の玉工芸の歴史は今お話ししました様に、石器時代にまで溯ると言われ、非常に古いのですが、この砂漠の果てのホータンの玉、于てんの玉は、一体何時頃から中国本土の玉の素材として用いられる様になったのでしょうか。文献によると、早くは「紀元前1718~1100年頃盛えた殷の時代」には既にこの于てんの玉が使われていたと言われています。而し、これは恐らく特殊なケースで、宮中で皇帝が御神事に使用する祭器に限られ、それも極稀なケースであったろうと思われます。と申しますのは、秦の始皇帝が万里の長城を築いた紀元前3~4世紀以前には、西域と中国本土を結ぶ道らしい道は殆ど開かれていなかったからです。西域と中国本土を結ぶ東西交易路 (現在のシルクロード) が本格的に開かれる様になるのは、漢の武帝が西域政策に乗り出した紀元前2世紀頃だと言われます。


 武帝は若干16才で漢朝7代の皇帝の位に即きます。 (BC156~87) の頃です。その頃、中国はその北辺をモンゴルの遊牧騎馬民族の“匈奴 (きょうど) ”によって脅かされていました。この匈奴という遊牧騎馬民族は、BC4世紀末頃から約500年間蒙古に栄えた民族で、騎馬をあやつる事を特異とし、武帝の頃には終始中国西辺を脅かし、皇帝の心胆を寒からしめた騎馬民族です。


 この“匈奴”は天馬 (てんば) と言われる程足の速い駿足の軍馬を多数持っていて、それを手足の様にあやつり、自分の方が少しでも有利と見れば、相手をどこまでも追い詰め、一人も余さず殺戮する。不利と見れば駿足に物を言わせて逃げる。さすがの武帝も之にはほとほと手を焼きました。丁度その頃、西域の捕虜の一人から、西域の大宛国、現在のソ連領フェルガナ地方に汗血馬と呼ばれる名馬がいて、一日に千里を駆けると言われ、全速で走る時には、全身から血の汗を流すという。之を聞いた武帝は、匈奴の騎馬軍団に対抗する為、この名馬、汗血馬を何とか手に入れようと思い、西域政策に乗り出し大きな犠牲を払いましたが、数度の遠征によって、遂にこの名馬を手に入れる事が出来ました。武帝は、その喜びを次の様に詩にしています。
天馬来る 西極より来す 万里を経て有徳に歸す
霊威を承けて 外国を降す 流沙を渉りて 四夷服す
と、武帝の得意の様が伺われます。


 漢の武帝は、西域遠征の為に数度に亙って軍隊を西域に派遣致しますが、遠征部隊は道を作り乍らの行軍であったろうと言われます。車輛が通れる様に狭い道は広め、高い処は削り、低い処は埋め、道の無い処には道を造り、その後を武器や糧秣を輸送する車輛部隊が通る。こういう事が西域遠征の都度繰り返される中に段々道路が整備され、やがてそれが交易路として活用される様になっていきます。この様に漢の武帝が西域侵略の為に造った軍用道路が東西交易路として、東西文化の交流にどれ程貢献した事か図り知れないものがあります。この事に思いを致す時、戦争と平和が織りなす逆対応とでも申しますか、明暗の皮肉なかかわりが痛い程感じられる様です。


 ここに皆さんも御承知の莫高窟という千佛洞で有名な、仏教東漸の道の拠点として栄えた敦煌があります。この敦煌の東に河西回廊 (黄河の西に位置する細長い通路という事で、河西回廊と呼ばれますが) という、東西に800余キロに亙って細長い通路が貫かれています。この河西回廊は、中国本土から西域に出るにも、又西域から中国本土に入るに致しましても、必ず通らなければならない交通の要衝で、南に祁蓮 (ぎれん) 山脈が東西に走り、北は馬鬣 (ばりょう) 山系が横たわり、その山系の切れ目切れ目に所々ゴビ砂漠が迫り出し、全体が細長い回廊となっていて、祁蓮山脈雪解けの水によって豊かなオアシスを形造っています。この河西回廊は、西域と中国本土を繋ぐ唯一の交通路、交通の要衝で、従って軍事上の要害でもあり、漢朝から唐朝にかけて東から凉州、甘州、粛州、瓜州、沙州に夫々鎮台がおかれ、軍事上の拠点とされていました。


 井上靖先生の映画“敦煌”の舞台がこの河西回廊でしたね。主人公の趙行徳が偶然狼煙台 (のろしだい) の中に潜んでいたウイグルの王族の女を助け、それが縁となって緑色の玉の首飾りを夫婦の契りの印として貰い受けます。この場面がこの甘州でした。そしてこの (玉) ひすいの首飾りは最後に沙州、つまり敦煌で于てんの旧王族であったキャラバン隊の隊長、尉遲光 (うっちこう) がこの首飾りを強引に取り上げようとします。行徳にとっては彼女の遺品に対する深い想い、そして一方の于てんの旧王族であった尉遲光にとっては、自国産の最高の緑玉 (ひすい) に対する愛着、夫々の情念が2人の男の命をかけた格闘となり、玉の取り合いの中で紐が切れ、この玉 (ぎょく) の首飾りは辺りに飛散し、その上を西夏 (せいか) の騎馬隊が駆け抜け、遂に緑の玉 (ひすい) は砂漠の砂の中にはかなく散失してしまいます。あそこがアノ映画の見せ場の一つであったようです。井上先生とは、亡くなられる17、8年前、お会いしたことがあります。アフガニスタンのヒンドウクシュ山脈 (現地の言葉でインド人殺しという意味だそうですが) 4000~7000メートルの峨々たる山々が聳えたっていて、それこそ天下の険、アフガニスタンを北東から南西に貫いていますが、このヒンドウクシュ山脈の中に高さ53メートルの磨崖仏で有名なバーミヤンがあります。磨崖仏とは、崖を削って掘り出された仏像の事ですが、このバーミヤンのロッヂで、たまたま井上先生と一緒になりまして、このロッヂの狭いバーで、シルクロード愛好者と言えば聞こえがいいのですが、シルクロードに取りつかれた男達が4~5人井上先生の周りに集まりまして、夜遅くまでウイスキーを傾けながらシルクロードの夜話とでも申しましょうか、先生のお話をお伺いしたことがあります。その時、于てんの玉の話が出まして、先生は一度是非このホータン (于てん) に行ってみたい、ホータンの玉の川に入って自分で玉の感触に触れてみたいと、私共の様な宝石や鉱物にかかわりを持つ者が思っている事と同じ様な事をしきりに言っておられまして、緑玉 (ひすい) に対して並々ならぬ思い入れがおありの様子でした。而し井上先生は畑違いで当然のことですが、玉についてあまり知識はお持ちでなかった様で、于てんの玉をビルマ産のグリーンの本ひすいと同じものと思っておられる様でございました。折角先生のお話に水をさすのは心ない事と思いまして、だまって先生のお話をお聞きしておりましたが・・・。敦煌の作者、井上靖先生のホータンの玉、于てんの玉に対する並々ならぬおもい (ロマン) がここに現れているようでしたね。紀元1038~1227、約200年間、中国の交通の要衝、河西回廊を支配した西夏 (せいか) の都興慶 (こうけい) はこの河西回廊の東の玄関口で西北に賀蘭 (がらん) 山脈が聳え、東には大黄河が流れ、天然の要塞都市で現在寧夏と呼ばれています。野心家の西夏の王、季天昊によって、河西回廊のオアシス都市は次々に攻略され、最後に沙州 (敦煌) が陥落し城が炎に包まれ落城する処で映画敦煌は終わります。


※この文章は昭和60年頃に行った卓話をもとに作成したものです。