エッセイ「シルクロードを行く」

仏教東漸の道と崑崙の玉:後編(2)

2003/08/01更新

 この敦煌落城から1500年程歴史は溯りますが、紀元前3~4世紀頃、この敦煌を中心にした一帯に、イラン系又はスキタイとも言われていますが、月氏と呼ばれる遊牧民族が現れて、中国とタリム盆地のイラン人との間にあって中継貿易を行い、莫大な富を得ていましたが、この中継貿易で取扱われた交易品は、中国はお定まりのシルク、それに対してタリム盆地のイラン側は、この于てんの玉、崑崙の玉であったと言われます。この様に于てんの玉、崑崙の玉が中国本土にもたらされたのは、紀元前2~3世紀以降という事になりますが、それではそれ以前には中国の玉工芸に使われていた玉は一体どのような原石 (もの) だったのでしょうか。
中国の玉の文献には、宋朝以前の玉器の素材については、只旧玉とだけしか表示してありませんので、玉の素材がどの様なものであったか定かではありません。而し、良質のものではなく、中国本土で手近に採れる雑多な鉱物が使われていた事は確かです。これらの原石の硬度 (かたさ) は硬度計で2・5~4程度 (ちなみに私達人間の爪の硬さは2~2・5) これを比較するとわかります様に、中国本土で採れる玉の原石の硬度は人間の爪と同じ位です。これに対して于てんの玉、崑崙の玉は、硬度が6~6・5と高く、しかも石の内部組織が繊維状組織で引張り合う力 (靭性) が強く、従って壊れにくい。又空気の中の塵埃の中にまじっている石英より硬いので傷がつきにくく、一度磨いたらその光沢は半永久的に失われないのです。しかもこの于てんの良質の白玉の光沢は温潤 (しっとりしていて) で、将に女性の玉の肌の感触です。このホータンの玉、于うてんの玉に接した中国本土の王族貴族達は我も我もと競ってこのホータンの玉、于てんの玉に千金を投じて惜しまなかったと言われます。その為に、年々于うてんの玉の需要が高まり、月氏の中継貿易は隆盛を極め、儲かって儲かって笑いが止まらなかったと言われます。ところが、儲かる企業は狙われるという。それは今も昔も変わりません。
丁度その頃、先程も一寸ふれましたモンゴルの匈奴と呼ばれる遊牧騎馬民族、これは秦の始皇帝をして、アノ万里の長城を構築せずにはいられぬ程までに恐怖させ、又漢朝歴代の皇帝の心胆を寒がらせたしたたかな民族で、この匈奴が、この月氏の中継貿易に目を付けて、“こんなボロい商売をよそ者にやらせて指を銜えてだまっている法はない。”と、この月氏に戦いを挑み、これを敦煌地区一帯から追い払って、月氏に代わってこのシルクと玉の中継貿易を一手に取り扱う事になります。而し匈奴の中継貿易も長くは続きません。やがて中国の支配する所となり、漢朝、唐朝、夫々玉門関を築き、玉とシルクの交易は益々盛んになり、それに伴い、中国の玉工芸は隆盛の一途を辿る事になるのです。ここでもう一つ、中国の玉工芸の発展に特筆すべき事があります。それはビルマひすいの出現です。清朝の乾隆帝 (AD1735~95) の時代にたまたま中国商人が長江を溯って雲南省からビルマのカチン州に商いにいっての帰り道、村娘が川で洗濯に使っていた石が処々鮮やかな緑色に光っているのを見て、その石を僅かな金で譲り受けて持ち帰り、玉の専門家に見せたところ、これがなんと!硬玉と呼ばれる本ひすいで、于てんの玉より遥に上質の玉で、本ひすいという事がわかり、桁違いの高価な値段で買い取られます。この話を聞いた人々が一躍千金を夢見て我も我もとビルマのカチン州に玉を求めて出かけましたが、途中マラリアに犯されたり、山賊や野獣の餌食となったり、一人として無事にビルマひすいを持ち帰った者はいなかったと言われます。
この事が玉工芸に関心の高い乾隆帝の上聞に達し、たまたまビルマと国境紛争が起こるや、これに乗じてその講和の条件にビルマひすいの採掘権を強引にビルマ政府に認めさせ、中国人の手で本格的にひすいが採掘されるようになり、ビルマひすいが雲南省を経て長江を下り、南京、上海に送られ、宝飾品 (ネックレス、腕輪、指輪等) に研磨加工され、それが中国のひすいとして華々しく世に出る事になります。
このビルマひすいの玉への登場によって、中国の工芸は、新たな脚光を浴び、著しい発展を遂げて今日に及びます。この様な事で中国の玉工芸を今日に至らしめたのは、玉工芸の素材に最も適した于てんの玉即ち崑崙の玉とその上に、ビルマの玉、本ひすいの登場によって決定的なものになったのです。


 戦前は上海から長崎、神戸ルートで、このビルマひすいが中国人の行商人によって、さんご、こはく等と共に中国産として日本中に売りさばかれたものです。これは大東亜戦の前頃まで続きます。ここで話を少し前に戻しますが・・・先程匈奴の為に中国のシルクと西域の于うてんの玉の中継貿易を取り上げられて、タクラマカン砂漠に追い払われた月氏の話をしましたが、月氏はその後一体どうなったのか・・・?匈奴の為に敦煌地区を追われ、安住の地を求めてタクラマカン砂漠をあちらこちらと彷徨 (さまよい) 続け、西へ西へと流浪の旅を続けます。遊牧民族とは言え、老人や女、子供を連れ、2万人近い集団の移動です。さぞかし難渋した事でありましょう。一時天山山脈の北のイリ地方に住み着こうと致しますが、同じ遊牧民族の烏孫にはばまれて、止む無くここも離れ、あそこを追われ、ここに逃れて次第に西へ西へと流れ流れて、遂にシルダリアとアムダリアに挟まれた、ソグディアナ、中央アジアでも一番肥沃な土地と言われるソグド地方に流れ着き、ここを安住の地と定め、先住民を鎮圧 (手なづけ) し、戸数10万、人口40万人の一大都市国家を建設致します。ところが、その後アムダリア南岸一帯に住む大夏 (バクトリア) の一部族のクシャン族 (貴霜) が抬頭し、月氏に代わって政権を担う事になります。恐らく政略結婚によるものと思われます。月氏に代わってソグディアナを統治したクシャン朝はその第三代カニシカ王時代にはソグディアナ、バクトリアは勿論、アフガニスタンから西北インド、中国の西域地方、そして中央アジアの西トルキスタンに至るまで版図を拡大致します。西北インドのガンダーラも勿論、クシャン朝の統治下に入り、カニシカ王は都をこのガンダーラのプルシャプラ現在のペシャワールに定めます。このガンダーラはカシミールと共に紀元1~2世紀頃からクシャン朝の保護のもとに仏教の中心地となり、大乗仏教の発祥の地と言われ、無着、天親、馬鳴等多くの高僧方を輩出致します。又仏像が初めて造られたのも、このガンダーラであったと言われます。
中国では、この月氏とクシャン朝の政変が無血で行われた為に、この政権交代に気づかず、このガンダーラを都とした国の名を旧政権のまま月支と文献に書き著してしまったのです。その為に我が国の仏教文献にも中国の文献に倣って、ガンダーラを中心とした一帯を月氏国と誤って書いてしまったのです。私共浄土真宗の御本典にも同じ様で親鸞聖人の教行信証の中に、「慶ばしきかな、西蕃月支の聖典、東夏日域の師釈、遇に難くして、今遇うことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。」とありますが、西蕃月支の聖典とあります“西蕃”とは、西の野蕃な国と誇り高い中国の人がインドを“おとしめて”呼んだ言葉で、インドの事です。月支とは、ここではガンダーラの事を指しているんですが、ガンダーラは今お話しました様に、月支と政権交代をしたクシャン朝の都となった処ですから、ほんとうはガンダーラ地方、国名を言うのでしたらクシャン朝と言うのがほんとうなのです。ですから、この教行信証の西蕃月支とあります月氏は、ガンダーラ又はクシャンとするのが正しい様です。この事は皆さんにはあまり関心を持つ程の事ではないのかも知れませんが、真宗教学を少しでも学ぶ者にとっては大切なことでありますし、今回はインドの一民族宗教であった仏教を世界宗教にまで発展させた、クシャン朝のカニシカ王、そのクシャン朝と月氏とのかかわり、そしてその月氏によって于てんの玉が辺境の地、西域から遥々中国本土にもたらされたばかりでなく、中国の玉工芸の発展にも大きく貢献した事等、この一連のかかわりについて、仏教東漸の道シルクロードを通して聞いて頂きました様なことでございます。御静聴を頂きまして感謝致します。


※この文章は昭和60年頃に行った卓話をもとに作成したものです。