エッセイ「シルクロードを行く」

民族の十字路(2)

2003/11/01更新

 40分程で再び機上の人となり、凡そ2時間くらいで目的地のカシュガル飛行場に無事着陸致します。バスで30分くらいで市街地に入り、宿舎カシュガル賓館に着きます。この賓館は、以前はソ連領事館をそのままホテルとして使っていた為、部屋は大きくて、贅沢な造りでありますが、古くて無駄が多く、不便極まりないものでした。今は3階建のバストイレ付きのちょっとしたホテルになり、中国式トイレに気を使う事もなくなりました。翌朝ゆっくり食事を取り、市内の見学に出かける。このカシュガルは、人口30万人くらいの中都市ですが、昔から、ヨーロッパから中央アジアを経て中国に入るにも、又、インドからパミール越えをして中国に入るにしても、一番多く利用された交通の要衝で、キャラバンが頻繁に往来したオアシスの街です。従って、古来色々の民族が、東西南北からこのカシュガルを通過し、又ある者はここに定着し、又この要衝の地を我が民族の拠点とすべく、幾多の少数民族が常に争奪戦を繰り返し、その上匈奴、突厥等の遊牧民族と中国が、この地の支配を巡って争ってきたのです。
その当然の結果として幾種類もの民族が、互いに混血し合って、今日に及んでいます。又、シルクロード上のオアシスでは、自分達の生活を少しでも楽にする為には、シルクロードを往来する旅人を一人でも多く、自分達のオアシスに誘致しなければなりませんでした。その為に、カシュガルに限らず、オアシスの住民達は大変な努力を払った様です。今日でも私達旅行者が、一寸したオアシスの街を訪ねると、必ずといっていいくらい、歌舞団が歌や踊りや音楽で私達を慰問してくれます。これらは、昔の名残であろうと思われますが、昔はこの歌舞のサービスの外に、女性の特別なサービスが行われていたと言われます。これは、昔も今も変わりませんで、旅の男達をとりこにする一番の方法でしょう。
13世紀にこのタクラマカン砂漠を横断した、マルコポーロの東方見聞録の一節にも、それを裏付ける様な事が書いてありますので、一寸この東方見聞録をのぞいてみる事にしましょう。


東方見聞録

 カムール国の事 (カムールとはハミール国、ハミの事)
ハミール国の人々は、全て偶像教徒 (仏教徒) で、彼ら独自の言葉を持っており、又著作や読書をたしなんでいる。 (文化が高かったと言っているのでしよう。) 彼らはこの地に出来る沢山な食料や飲水 (のみみず) を、ここを通る旅人に購って生活をしているのであるが、彼らは陽気で暇さえあれば、楽器を奏で歌ったり踊ったりして歓楽に耽るのである。ところが、この国では見知らぬ旅人が、この地方の家に宿を借りに行くと、その家の主人は大喜びでこれを迎え、旅人の望む事は何でもこれに従う様に妻に命じ、自分はそそくさと家を出て郊外に行き、そこで寝泊まりして、旅人に必要な一切のものを整えて、そこから家に送り届ける。この間、旅人はずっとその家の妻と2人きりで寝起きを共にし、まるで自分の妻の様に彼女と寝床を一つにして、したい放題の事をして二人で楽しむのである。
こういう次第であるから、都市と言わず農村と言わず、ハミールの亭主たる者は、誰も彼もが皆その妻に密通されているのだが、奇妙にも彼らはいっこうにこれを恥じとしない。ハミールの女は兎に角美人で陽気で浮気っぽい。ところがタタールの君主モング汗の治世に、この忌まわしい風習が汗の耳に入った。そこでモング汗は、見知らぬ旅人を家に泊め、彼らの妻達が旅人に特別なサービスをする事を重い罪を設けて禁じてしまった。この禁令に接して、ハミの人達は大いに困ったが、3年間この禁令に従った。そうこうするうちに、土地からの産物は不作が続き、家々には禍が起きる様になったので、彼らは寄々相談した結果、これは自分達の祖先の決めた風習に従わぬ為の先祖のたたりであるとして、妻達が以前の様に旅人にウルトラHのサービスをする事をお許し下さい。そうする事を私達が信ずる仏達も嘉せられるのです…。とこの禁令を解いてくれる事を汗に訴えた。モング汗はこの訴えを聞いて驚き、あきれて「自分の恥を望むのなら、したい様にするがよい。」と言って、それを許した。それ以来、その風習が今なお行われているという。
  マルコポーロ東方見聞録
  青木一夫訳註


 こういうものを読むと、変な話に聞こえますが、これは、オアシスという厳しい自然の中で、旅人を頼って生きていかねばならないオアシスの人々にとっては、自然の成り行きで、やむを得ない事であったのかもしれません。現在、このカシュガルでは、漢民族の外にウイグル族を主として、ハザック、キルギス、タジク、ウズベク、トルクメン、モンゴル、シボ、オロス、満州という様な少数民族が雑居しておりますが、この街の幼稚園に行きますと、園児達の顔が夫々皆違う。ウイグルの顔を始め、今お話しました夫々異なった人種の顔・顔・顔で、これらの雑種等、それはそれは賑やかな事。まさに人種の坩堝といった所です。子供達の顔を見ていると、この街の歴史が何となくわかる様な気が致します。このカシュガル市の中央に、中国で一番大きな“エティカル”と呼ばれる回教寺院がありますが、この寺院の広場に、日曜になるとこれ等の民族がバザールに集り、それこそ世界中の人種の博覧会を見る様です。この寺院の広場から、東へ二ブロックの所に交差点があって、行き交う車で賑わっています。タクラマカン砂漠を挟んで、敦煌で南北に別れたシルクロードがここで再会するのです。
つまり敦煌から北上してハミ、トルファン、コルラ、クチャ (亀茲国) 、そして白い水という名のアクス、そしてカシュガルへ。これがご承知の通り西域北道。それから敦煌から西へ玉門関を経て、ローラン、チャリクリク、チェルチェン、ニヤ、ホータン (于てんの玉で有名) 、ヤルカンド、そしてカシュガルへ。これが西域南道です。敦煌で二つに別れたこの南北のシルクロードが、ここで再びドッキングするのです。この十字路に立って西を望めば、パミールの連山が雪を頂いて遥か彼方、雲海の中に浮かんで見えます。古代のパミール高原道、現在中巴公路と呼ばれていますが、この中巴公路が、このパミール高原から東へカシュガルに伸び、この地点で南北と両道と交差しています。昔、旅人達は唐の都長安から半年がかりで、このカシュガルに辿り着いたと言われます。きっとこの地点に立って東を望み、家郷を想い望郷の念止み難く涙にくれ、又ある者は、パミールの山々を望み見ては、あの山の彼方には、自分が今から行こうとしている未知の西の国があるのだと、まだ見ぬものへの憧れと希望に心躍り、ここに立って、夫々悲喜交々の思いをした事でありましょう。私も又、この十字路に立って、2000有余年に亘るシルクロードの歴史の中で、様々な民族がこの十字路を行き交い、又この地に定住する中で、異民族が互いに交わり、この地を母なる大地として新たな民族の名が生まれ、定着していったであろう事を思う時、私が今立っているこの十字路こそまさに「民族の十字路」と呼ばれるに最もふさわしい地点であろうと強く感じさせられた事であります。漢書、西域伝に疏勒国 (カシュガル) は、長安を去る事9350里、戸数1510戸、人口8637人市列ありとあります。
市列とは、市場、バザールの事です。このカシュガルは、昔から市が盛んであったのでしょう。今日でもバザールが盛んで、日曜日は人間の洪水で身動きが出来ない程です。ここのバザールの特徴として、職人街が有名ですね。ここに行きますと、木工家具、革細工、楽器製作、民族衣装と帽子の店等の工房兼売店が軒を並べていて賑わっています。特に面白いのは民族楽器を作る店です。マンドリンの柄の長い奴で、ドタールという二絃の楽器、ラワールという蛇の皮を張った三絃の蛇味線、その他、タンブリンのでっかい奴でダップと呼ばれる打楽器、ナイという横笛、ソナイという縦笛等様々、器用な手つきで作っています。一日中見ていてもあきない程です。又、市列ありの後に漢書は、西は大月氏を始め、大宛、康居に通ずとあります。大宛国は現在のソ連キルギス共和国のフェルガナ地方で、名馬、汗血馬の産地として知られた所です。康居はその北部地区にあり、大宛国と共にシルダリア (シル河) 下流沿岸に勢力を張った国です。カシュガルは、それらの国々と直接結ばれた交通のターミナル、国際色豊かなオアシス都市であったと、漢書は言っているのでしよう。中でも、月氏に通ずという事は、大変重要な意味があるのです。何故かと言いますと、月氏国のあるソグド地方は、シルクロードの丁度中間に位置して、この国のサマルカンド、ブハラは、中継貿易の拠点で、西はヨーロッパ諸国から南はインドから又、東は中国から色々の物資が運ばれ、又文化の交流があり、国際交流の中心地として隆盛を極めました。ですから、この月氏国に通ずという事は、世界中の国々に通ずるという事になるからです。又、カシュガルは国際都市、文化都市であった為に、仏教が他にさきがけて紀元前から伝えられたと言われます。かつては、仏教文化の花が咲き匂った事でありましょうが、交通の要衝にあっただけに民族興亡の歴史の中で、破壊が繰り返され、特に十世紀以降、偶像崇拝を極端なまでに廃する。イスラム教を信奉するアラブの侵攻によって、仏教は仏教施設と共に、徹底的に破壊し尽くされて、今は見るべき仏教遺蹟は殆ど残されていない様であります。私はこの数少ない仏教遺蹟を尋ね歩きましたが、カシュガル北部郊外のチャクマク河岸にある三仙洞という仏教遺蹟と、市内から南へ40キロメートル程の所にハンノイという仏教寺院の廃墟の跡があるくらいで、いずれも交通不便な、余り人々の近づく事のない所に、やっとその遺構を止めるのみでありました。
こうして20日から23日までカシュガルに滞在し、翌24日から待望のパミール高原のシルクロード、即ち往年の仏教東漸の道のコースに入り、この旅はまだ続きますが、今回はこれで筆を置く事に致します。
  1983年9月


※この文章は昭和60年頃に行った卓話をもとに作成したものです。