エッセイ「シルクロードを行く」

パミールルート(1)

2004/01/01更新

 一昨年 (1978年) 8月15日、成田を飛び立ち、北京経由で、新彊ウイグル自治区の省都ウルムチに入り、17日から20日までこのウルムチから天山山脈の山系と山系の間の鞍部を抜けて、西域地方で紀元498年から640年までの間、漢民族の王の支配下にあって、仏教が栄えた高昌国、現在のトルファンを訪れ、この地の仏教遺蹟と文化を尋ね、20日再びウルムチに引返し、21日に47人乗りの双発プロペラのソ連機で、新彊地区の西端にある交通の要衝カシュガルに飛び、21日から27日ここを拠点としてパミール高原のシルクロード、即ち仏教東漸の道のメインルートを踏査する事に致しましたが、先ず、21日から23日まで民族の十字路カシュガルを見学し、24日いよいよ待望のパミール高原に入る事になりました。午前9時ジャスト、ホテルを出発、車はイスラム寺院としては中国で一番大きいと言われるエティカール寺院広場から民族の十字路を突っ切って、西へ向かって、ひた走りに走ります。


 郊外に出た辺りからなだらかな坂道となり、石ころの多いデコボコの悪路となるが、前方はるか彼方には、パミール (葱麓) の峰々が白雪を頂き、私達を歓迎するかの様に大空にその勇姿をくっきり見せています。しばらく走ると、ゲズ川の流れにかかる川幅は200メートルはありましょうか、パミールに源を発するこの川はセメント色の濁流となって、ザワザワ、ザワザワと音を立てて流れています。車はこのゲズ川の岸に沿うて、デコボコの道を車体をガダビシときしませながら進みます。やがて、2時間程走ったでしょうか。川を挟んだ両側の山々が次第に接近して狭せまってきます。峡谷に入るようです。
峡谷に入る少し手前が広い川原になっていて、幾筋も小さいゆるやかな流れがあり、その広い川原に放し飼いのラクダが数頭群れています。ゲズ川の流れは石灰分の為、セメント色をしているが、この様な水を飲んでも腹痛は起こさないだろうかといささか気になりますが、ラクダ達は長い首を上げ下げして、のんびりと川原の中を群れ遊んでいます。「砂漠にはラクダがよく似合う」この言葉は私の先入観から出た手前勝手な言葉かもしれませんが、アフガニスタンの砂漠地帯の牧草地で数頭の牛がモウと鳴いているのに出会った事がありますが、砂漠に牛はどう考えても様にならないようです。
しかし、灌漑技術の急速な進歩によって砂漠が緑地化され、羊の遊牧から牛の牧畜に変わっていくのも時代の流れによるもので、さほど遠くはないと思われます。ラクダもやがて砂漠の過去の動物となっていくのかもしれません。峡谷に入ると、ゲズ川は急流となり、ザワザワと激しく音を立て、曲がりくねって流れます。道路はこのゲズ川に沿ってカーブの多い急な坂道となり、益々悪路となります。この道路は、中国・パキスタン、つまり中巴公路と呼ばれる幹線道路で、カシュガルからゲズ、ブルンクルを経て、タシクルガンへ、そしてここから更にカラクルム山脈のフンジェラブ峠を越えてパキスタン領に入り、ギルギットを経て、インダス川に沿うてパキスタンの首都イスラマバード近くのタコットまで延々950キロメートル (中国側300キロメートル、パキスタン側650キロメートル) にも及びます。
尚、この中巴公路はカシュガルからウルムチに通ずる幹線道路 (往年のシルクロードのメインルート即ち西域北道) に連結しております。


 この中巴公路の中でカシュガルからフンジェラブ峠までのパミールルートは、今お話しております様に往年のシルクロードを車が通れるくらいに岩壁をダイナマイトでぶっ飛ばしただけの山道で、幹線道路と呼ばれるには余りにもお粗末すぎる様です。それに比べてパキスタン側の道路は二車線往復の完全舗装道路となっていて、途中の川に架けてある橋も中国式擬宝珠のある欄干のついた鉄筋コンクリート造りの立派なものです。
実は、このパキスタン側の中巴公路も中国の手で建設されたもので、しかも、20年近い長い年月を費やし、中国が自国の莫大な資金を投じ、自国の陸軍の工兵部隊を投入し、その上1万人に昇る尊い人命の犠牲によって漸く1978年末に完成したものです。財政的に決して豊かとは言えない中国が大変な無理をしたものだと思わずにいられません。表向きは産業道路という事になっていますが、これはあきらかにソ連の南進に対する牽制の為と見る向きが強いようです。
ソ連が15、6年前に、アフガニスタンのヒンドウクシュ山脈のサラン峠にトンネルを穿ってソ連領のテルミズの川向こう、アフガン領のマザーリシャリフを起点として首都のカブールまで2車線往復の完全舗装道路を建設致しましたが、1979年12月にアフガニスタンの内紛に乗じて、この道路を使って首都カブールに武力侵入致しました事はまだ私達の耳目に新しいところです。
その事と思い合わせると、これはただならぬものが感じられ、重大な国際問題がからんでいる様に思われてなりません。最近、中国とソ連の国交が回復する気配を見せていますが、それについて、中国側はソ連がアフガニスタンから軍隊を撤退させるという事が先ず条件となる事でしょうし、ソ連側としてはそう簡単にこれに応じる訳にはいかないでしょう。このあたりがなかなか難しいところですね。話が少し発展しすぎた様ですが、カシュガルを出てから四時間くらい走ったでしょうか、やがてゲズ検問所に着きます。ここには陸軍の若い少尉さんが、20名くらいの兵隊さんを指揮して、ここを出入りする者の検問と警備に当たっています。いざという時の為か、余分の兵舎が幾棟か立っていて、ここはもうソ連との国境周辺だなあという感じを強くします。この検問所の前の広場で昼食をつかい、1時間ほどして2時30分出発する。ゲズ検問所を出たところから、道は急に険しく、カーブの多い急坂となり、ゲズ川は益々急流となり、激しく岩を噛み瀬音を立てて滔々と流れる。
目もくらむ様な切り立った絶壁に挟まれたゲズ川の川幅は、広い処で30メートルはありましょうか。道路はその絶壁の片側の中腹に岸壁をハッパでぶっ飛ばして造られた荒削りのもので、転落防止の柵もありません。


 この様な悪路を果して無事に通り抜けて行けるのだろうかと、いささか不安になります。大きな岩の塊が、覆い被さる様に道一杯に突き出ていて、その下を岩壁にぶつかりながら、かろうじてくぐり抜けると、突然急カーブに出会います。すると急ブレーキがかかる。油断すると、車が危うく断崖をゲズ川の濁流に頭から突っ込みそうになります。転落でもしようものなら一巻の終わりです。
ドライバーは必死にハンドルを切ります。ふと対岸に目をやると、前方の小高い、牧草の生えている斜面に幾棟かパオが見えます。ゲズ人民公社の集落という事です。
7世紀の中頃、玄奘三蔵法師はインドからの帰途、パミールのシルクロードを通っています。しかし、果たしてパミール高原のどのルートを通ったのかはっきりしません。ただ、コングール山の東側を通ったことだけは明らかです。彼の旅行記によれば、パミール高原のシルクロードを越える時、一行は盗賊の群れに襲われ、共の者たちは慌てて山中に逃げ込み、経典や仏像を積んでインドから連れて来た象は、この俄の出来事に驚いて逃げ惑い、あやまって川の中に落ちて溺れ死んだと彼のインド旅行記に記しています。この辺りで象が溺れ死ぬ程の川は、このゲズ川以外には見当たらない様ですし、ガイドの話では、人民公社のある所から斜面を登り詰めると緑の草原が開け、ここを古代のもう一つのシルクロードが通っていて、今でもその当時の旅人の為のキャラバン・サライ (旅舎) が残っているという事ですが、このルートは、コングール山の東側を抜けてタシクルガンに通じているという事です。
とすると、ガイドもそう言っていましたが、玄奘様一行はこのルートをタシクルガンからコングールの東側を抜けてゲズに至ったのでしょう。そしてその途中、どこかこの近くで盗賊に襲われ、インドから連れて来た象が、この異変に驚いて暴走し、川におぼれ死んだと玄奘の紀行文にあるのはあのゲズ人民公社のある緑の斜面を駆け下り、勢いあまってそのまま断崖を、この激流に転落したという事になると、その場所は丁度このすぐ目の前の断崖辺りという事になるのではないだろうかと、玄奘三蔵法師の事に思いを巡らしているうちに、ゲズ川に架かった吊り橋が風で大きく揺れている下をくぐり抜け、ここでゲズ川と別れて、カーブの多い石ころだらけの急坂を右に左にハンドルを切り乍ら、あえぎあえぎ昇ります。時にはエンジンがストップします。一旦バックしてギアをローに切り替えて、アクセルを一杯に踏み込んで駆け上がります。


※この文章は昭和60年頃に行った卓話をもとに作成したものです。