エッセイ「シルクロードを行く」

パミールルート(2)

2004/03/01更新

しばらく行くと、道路の前方をかなりの川幅の流れが、行く手を斜めに遮って流れていて近づいてみるとかなりの水量です。止む無く私達は車から降りて、川の中を歩いて渉る羽目になりました。
靴ばきのまま膝上まで水に浸かって、車の後を押しながら、ジャブジャブと川の中を渉って向こう岸に上がります。何故橋を架けぬのかという質問に対して、これは気温の上昇の為に氷河が解けて急に増水して、鉄砲水となって吹き出し、川になったので、しばらく放っておけば自然に流れは無くなるとの事で、こういう現象はここらでは珍しい事ではない、という返事が戻ってきました。大変な所です。
今日でもこの様に難儀なこのパミールルートを、かつて多くの高僧方が、寒さと飢餓と闘い、その上、狼や盗賊の群れの襲撃の危険に身をさらしながら、錫杖 (シャクジョウ) 一つを頼りに、岩角を踏みしめ踏みしめ、仏法盛んなれ、仏法弘まれかしの一念で渉られたのです。又、不幸にも志半ばにして途中命を落とされた方も多いと聞きます。


 あれこれと仏教伝来の往時に思いを馳せているうちに、車はやっとのことで坂道を上り詰め、眼前が開けます。標高3500メートルパミール高原に出たのです。そこには、満々と水をたたえた沼が広がり、その周り一帯は広い一面の湿地帯となっていて、前面に丘陵地帯がせり出し、その向こうに国境の山々が連なっています。
ここから10キロメートルも離れていない山の向こうはすぐソ連領です。ごろごろした石ころだらけの急坂を車はよろよろとよろけながら、ゆっくり下ります。丁度、富士山の須走を車で下る様なものです。漸くの事で平坦な道路にでて、沼に沿うてしばらく行くと、右手は小高い丘陵地帯となり、道の左側をかなりの幅の川が流れています。川に沿うて坂道をしばらく走ると集落があり、そこがブルンクルというキルギスと呼ばれる少数民族の部落です。
日干しレンガで出来た家が丘陵の斜面に段々に建てられています。人影はまばらで、老婆と幼い子供達が物珍しげに私達、俄の訪問者を眺めていました。


 ブルンクルを出ると、道は再び上り坂になり、左手奥には緑の草原が広がり、羊が群れて草を食み、人民公社のパオがあちらこちらに散在しています。ラクダは一匹も姿を見せません。
多分、まだ夏の遊牧地から戻って来てないのでしょう。部落に働き盛りの男や女の姿が一人も見えないのもその為と思われます。車は相変わらず石ころの道をブルンブルンとうなり声をあげて急坂を上ります。30~40分くらい上ったでしょうか、狭い台地に出てジープは止まりました。車から降りると中国登山協会の副主席という方が、私達と同じグループの登山隊のメンバーをここで待って下さっていました。
左手前方に標高7719メートルのコングール山が、全山氷と雪に覆われ、巍々として聳え立ち、その裾野がすぐそこまで広がっていました。いや、私達が立っているこの台地も山裾の一部でしょう。
初めてまみえるパミール高原屈指の名峰コングール山でありました。感激に身を固くしてカメラのシャッターを切りました。副主席を交えて一同コングール山を背景に記念撮影をして車に帰ります。
時計の針は3時20分を廻っています。ジープは相変わらずカーブの多いデコボコの道を右に左に乱暴に飛びはねながら私たちを翻弄します。油断をすると車外に放り出されそうです。
この悪路と悪戦苦闘をしているうちに間もなく広々とした草原に着きました。湖が見えます。湖水だ!夢にまで見たカラクル湖です。私はカメラを抱えてジープから飛び出し、彼女の方に一散に駆け出します。ここが標高4000メートルの高所であるということも忘れて…。彼女は藍色の美しい水を満々と湛えて、優しく私を迎えます。湖水の後方には、コングールの峰々がその偉容を見せ、又、右手奥には“氷山の父”と呼ばれるムズターグ・アタ山 (7546メートル) が秀麗な姿を横たえ、これらの名峰がくっきりと湖水にその姿を浮かべます。時の経つのも忘れて、私はカメラのシャッターを切ります。
湖水は一瞬一瞬にその水面を微妙に変化させます。藍色から紫紺に、紫紺から黄金色に、黄金色からピンクに、又、明から暗に、暗から明へと一瞬も休む事なく変化して止みません。
荒涼という言葉が一番似合うとばかり思っていたこのパミール高原に、この様に美しくも又、神秘的な風光があろうとは…。古代からこのパミールのシルクロードを通った旅人達もこのカラクル湖畔に憩い、どれほど旅情を慰められた事でありましょう!又、これらの旅人達に混じってここを通られた高僧方も、ここに足を止めて、この湖水を西方浄土の七宝の池、満々と湛えられたこの水を八功徳水と称えられ、コングールやムズターグ・アタの峰々を、スメール (須弥山) と拝された事でありましょう。
私はこの風光を一枚でも多くカメラにおさめようと苦しい息を整えながら、シャッターを切り続けます。カメラのアングルを変える為に、湖水のぬかるんだ岸辺を右、左と移動します。標高4000メートルの高所では大変な作業であります。しかし、再び来れるという約束はありません。折角のチャンスです。頑張れ!頑張れ!と自分で自分を励ましながら、シャッターを切り続けました。呼吸が乱れ、心臓が今にも破裂しそうになります。頭痛がし、目の前が白く濁って見えます。体力の限界です。
私は地上に静かに体を横たえます。やがて日が傾きかけ、辺りがたそがれ始めると気温が急に下り、寒気が私の全身を襲います。私は重たい体を起こし、足を引きずる様にしてテントに入り、寝袋に入って休息します。いつの間にか眠りに誘われ、うとうとしていると、テントの外に人声がする。登山隊の炊事班の人々の声でありましょう。私は急に空腹を感じテントを出ます。そして、炊事班の炊く赤い火の方に向かって歩いて行きました。


 翌朝、登山隊の人達は、早朝暗い中に、装備を整えて、ムズターグ・アタ山に向かって出発していきました。私達七人の残留組は、中国とパキスタンの国境線の標識のあるフンジェラブ峠を尋ねる事に致しました。峠は、世界の屋根と言われるパミール高原から張り出したカラクルム山脈の中の、標高6000メートル~8000メートルの山々に取り囲まれた4943メートルの峠の頂上です。四方見渡す限り、山、山、山の連続です。


 ここはまさに、世界の屋根と言われる延々と続く曲がりくねった急坂を上り詰めて来たドライバー達が一息つく所です。流石、国境の峠で、広場では色とりどりの色彩を施した、パキスタンの“デコレーションを施したトラック”のパキスタン人ドライバーと、中国人ドライバーの談笑する姿が見られます。標高5000メートル近くともなれば、酸欠のために息を吸ってもすかすかするだけで、息を吸った事にはならず、息苦しいだけです。早々に峠を降りて、今日の宿泊地のタシクルガン (石の塔という意味) に向けて出発する事にします。タシクルガンは、紀元前早くから開かれた国境の守りの為の集落で、人口3000人くらいで、見るべきものは何もありません。ただこの町の名が示す背後の高台にある石の砦 (タシクルガン) が、歴史の中で、この町が果たしてきたものが何であったかを物語っている様です。
夕食後、何もないこの町では、疲れた体を休める為に、早く寝ることの外にはありません。早々にベッドに入り、翌朝九時起床、ホテルの近くを散策した後、11時タシクルガンを出発して、カシュガルに向かいました。途中、ブルンクルの湖畔で昼食をとり、午後8時過ぎカシュガルに帰り着く事が出来ました。その夜は、カシュガルホテルで一泊して、翌日午後、飛行場で登山隊のメンバーと合流して、ウルムチ、北京経由で23回目のシルクロードの旅を終え、無事成田空港に到着、帰国致しました。


※この文章は昭和60年頃に行った卓話をもとに作成したものです。