エッセイ「シルクロードを行く」

シルクロードの十字路(2)

2004/07/01更新

 この貧しい国が、どうしてか今日まで絶えず異民族の支配を受けなければならなかったのです。古くは、紀元前1500年頃、北方騎馬民族のアーリア人の南下によって支配されて以来、ずうっと次々に異民族の支配下におかれて来て、アフガニスタンがアフガン人自らの手によって統治されたのは、19世紀に至って初めて、アフガン王朝の存在が許されたくらいのものです。
そもそも、このアフガン人と呼ばれる民族は、ヒンドウクシュ山脈を中心とした一帯に住みついた種族で、ドゥラーニー蔟 (ドラニー族) を中心にパタン族 (パシュート族) その他の少数民族の総称でありますが、この名が世に出るのは、ようやく10世紀の初めで、それまで歴史上全く無視されて来た民族でした。それ程貧困で、虐げられた民族です。
その中でも特に紀元前330年頃のアレキサンダー大王のアジア遠征による支配と7~10世紀にかけてのアラブの侵入、そして殺戮と破壊を欲しいままにした13世紀のモンゴルの青い狼と言われた、ジンギス汗の侵略は、歴史上余りにも有名です。その他アケメネス朝のダリウス、クシャン朝のカニシカ、歴代ササン朝ペルシャの王達、トルコ系のガズニ朝、中央アジアの英雄とうたわれた、ティムール等々、侵略者の名を数え挙げれば、きりがありません。


 近世に至って19世紀の初頭、初めてアフガン王朝が成立したが、王朝の内紛に乗じ、帝政ロシアが介入に乗り出し、南下の姿勢をみせます。これを見て、当時インドを征服し、自国の領土に治めたイギリスが、そうはさせじとアフガニスタンに武力侵入し、2回に亙るアフガン戦争 ( (1) 1838~1842/ (2) 1879~1881) の末、ついにアフガニスタンは、イギリスの属領となります。
その後、反英運動が高まり、1919年には、イギリスを武力で撤退させ、1929年に再び、ナディル・ハン将軍によるアフガン王朝を立て、アフガニスタンの近代化を促進し、ついでムハマド・ザーヒル・シャーが王位を継承し、1964年、自由憲法が国民大会議で承認され、一時繁栄をみせましたが、又ぞうろう、ソ連、アメリカ、中国の内政干渉により、王朝は倒れ、政権が不安定のまま現在に至っております。
そしてご承知の如く、今日只今はソ連軍が強引に内政に介入して、軍隊が首都カブールに進駐して、テコでも動きそうな気配はありません。アフガニスタンの様な、この様に貧しい国が、一体どうして他国の侵略の的にされるのか、不思議なくらいですが、それは!アフガニスタンがシルクロードの十字路、即ち今日のアジアハイウェイの十字路という交通の要衝に位置しているからであります。
アフガニスタンは、なまじアジア、インド、ヨーロッパの中の最も重要な交通の要路に位置した事によって、他国の侵略から免れない運命を背負わされて来たといえる様であります。まだ私共の記憶も生々しい一九七九年の十二月のソ連軍の進駐にしましても、直接的にはソ連にとって、イスラム勢力がアフガニスタンの親ソ政権を倒すのは困る、という「ソ連対イスラム世界」の問題でありましょうが、その根を洗えば、ソ連は南の暖かい港に出たいという、これは、古くは帝政ロシア時代からの願望でありましょう。
その願望を遂げる為の足掛かりとして、どうしてもこのシルクロードの十字路という交通の要衝に位置するアフガニスタンを自国の支配下に治めなければならない、その為の進駐でありましょう。私が仏教遺跡を尋ねて、ヒンドウクシュを越えて、北部アフガニスタンに最初に旅行したのは、1975年、昭和50年でありましたが、その時既に、首都カブールから北へヒンドウクシュ山脈のサラン峠にトンネルを通して、一路ソ連国境まで、二車線往復の完全舗装道路が、産業道路という名のもとに、ソ連の手で出来上がっておりました。 (1958~1964)


 このサラントンネルはヒンドウクシュ山脈の丁度中央のサラン峠の標高3200メートルの高所にあって、長さ2700メートルの本トンネルと豪雪と崖崩れの防災用隧道を合わせて、全長4500メートルに及びます。私達日本人の目には、おせじにも立派とは言えませんが、頑丈なだけが取柄のトンネルです。
私が最後にアフガニスタンを訪れたのは1974年の10月、ソ連軍がアフガニスタンに武力進攻した2カ月前でしたが、そのアフガニスタン北部の国境の町、クンドウズで、市民総決起でソ連軍の武力介入反対のデモが行われており、たまたまこの殺気立ったデモ隊の群衆の渦の中に2~3時間も閉じ込められ、身動きが出来ず、もう駄目だと思った事でしたが、幸い、一人の指導者の好意によって、道をあけてもらい、デモ隊の群衆の渦の中からやっと脱出する事ができ、やれやれ命拾いしたと、緊張感が解け、時計を見ますと、何とその間僅か30~40分間の出来事であったのです。
余りの緊張感から、とても長く感じられたのでした。その時の不安と恐怖が今でも忘れられません。この様な事があって2カ月後の1979年12月に、ソ連の武装兵力が戦車を先頭に、このトンネルを強行突破して、アフガニスタンに武力侵入したのです。その時、このトンネルを戦車隊がごうごうとうなり声をあげて通り抜けた有様が私にはありありと目に浮かびます。
この道路は、既に建設された首都カブールから東へハイバー峠を越えて、パキスタンに至る幹線道路に通じています。ソ連は、この道路建設の見返りにヒンドウクシュ山脈の南麓に、自国の軍用飛行機の基地を建設した事は、周知の事であります。首都のカブールからこの飛行場まで車で一時間、カブールからソ連国境のアムール河まで約6時間、何の事はない、10何年前からチャンスさえあれば、何時でも出撃出来る様に用意されていて、今回のソ連の進駐となったのでありましょう。つまり、予定の行動であったと言えそうです。
昔は、このインド人殺しという名のヒンドウクシュ山脈を越えるのに、このサラン峠の少し東寄りにハワクという名の峠があって、かつてアレキサンダー大王や孫悟空でおなじみの玄奘三蔵、宋雲、恵生等が経典を求めてインドに渡られ、モンゴルの青い狼と言われたジンギス汗も、この峠を2週間余り費やして越えています。今は2時間足らずでこの天下の険を越える事が出来、私達旅行者にとっては、この点ではまさにソ連様々であります。ソ連軍が何時アフガンから撤退するのか、私達の計り知る処ではありませんが、よしんば撤退したとしても、一瞬のうちに首都のカブールを制圧出来る状態にある限り、アフガニスタンがソ連の支配下におかれているという事には変わりはない様です。而し、アフガニスタン全土が複雑な地形の山岳地帯で、ゲリラ戦に適しており、平素から手製の銃を持ち歩いているパタン族、このパタン族はかつてアフガン戦争の折、得意のゲリラ戦法で5000人近くのイギリス兵を殺した、勇敢な戦士達ですが、この様な戦闘的な部族の集団がおり、その上イスラムという破壊的なエネルギーをもつ宗教を奉ずる民族であれば、かつてイギリスがそうであった様にソ連も対ゲリラ戦に今でも手こづっている様ですが、当分手を焼く事と思われます。
ここで一寸、中国との国境に目を向けてみましょう。ここに昔のシルクロードの宿場町タシクルガンがありますが、カシュガルから中国、パキスタン (つまり中巴公路が開かれており、この中巴公路は更にフンジェラブ峠を越えて、パキスタン領に入り、フンザ、今のカリマバード、ギルギットを経て、インダス河沿いに西南に向かって、往年のシルクロードを断崖をハッパでぶっ飛ばして広げ、二車線往復の完全舗装道路がパキスタンの首都イスラマバードの近くのタコットまで通じています。これは、嫌がるパキスタンを脅しすかしして、中国が自国の莫大な資金を投じ、20年近くの年月を費やし、1978年末に漸く完成したものです。
この道路の建設が着手されたのは、ソ連がヒンドウクシュにトンネルをあけてサランハイウェイの建設に着手した時期と時を同じくしております。中国は貿易路と言っておりますが、ソ連の南進に対する牽制の為と見る向が強い様です。1985年の5月、大乗仏教の発祥の地と言われるガンダーラを基点に、この中巴公路、通称カラコルムハイウェイをペッシャム・キラからチラス (昔の難所ダレキ) 、ギルギットを経てフンザまで仏教遺跡を尋ねて歩きましたが、驚いた事は、800メートル間隔に、慰霊塔が立っており、如何にこの中巴公路の建設が難工事であったかを物語っております。
聞けば、中国、パキスタンの陸軍の工兵部隊が動員されて作業に従事したという事です。中国も大変な無理をしたものです。たまたまハイウェイ建設の話になりますと、パキスタンのガイドの顔が、心なしか暗い表情になります。ここにも虐げられた国の人間の苦悩が、かいま見られる思いが致しました。現在レバノンの中東紛争の為に世界の注目が多少薄れておりますが、今日でもアフガン問題を軸に国際情勢の緊迫が続けている事には変わりない様であります。兎に角、アメリカ製の銃を担い、ソ連が作ってくれた道路を行進し、中国が建てた兵舎に起居している、これがシルクロードの十字路に位置するアフガニスタンの宿命的な姿であろうかと思われます。この事は又、多かれ少なかれ、かつてのシルクロード沿線上のオアシスの国々が受けねばならなかった宿命でもあった様です。四方、海に囲まれた日本では、考えも及ばない事でありますが、化学兵器が進歩した今日、他山の石として見過ごしてよいのか一抹の不安が残る様であります。
以上をもちまして、シルクロードの十字路に位置したアフガンの苦悩についてのお話を終わります。


※この文章は昭和60年頃に行った卓話をもとに作成したものです。