エッセイ「シルクロードを行く」

ヒンドウクシュ山脈を越えて(1)

2004/09/01更新

「ミスターフジモト」と肩をたたかれて、眠りから覚めた。大きなソ連の男の人が無愛想に、もそっと突っ立っている。
ソ連領ウズベク共和国の首都タシケントの国際空港の待合室である。「イエス」と返事をすると、「プリーズ・カモン」と手で合図する。カブール行きの搭乗時間らしい。
時計の針は既に正午近くを指している。彼の後について行くと、ゲート (搭乗口) で若い女の娘にバトンタッチされて、やっとカブール行きアエロ・フロート531便に乗り込むことが出来た。ソ連のインツーリストの係員の指示に従って、今朝は早朝4時に起床し、6時サマルカンドを飛び立ったが、タシケントに到着して直ぐ朝食をとり、ビッグサイズのボトルのワインを一滴も残さずに飲んだのがきけたのか、4時間近くもこの待合室で前後不覚に眠っていた訳である。
 やがて機は、ゴウゴウとエンジンの音を響かせながら飛び立ち、コースを南へとる。眼下は名だたる中央アジアのカラクルと呼ばれる大砂漠地帯である。世界の屋根と言われるパミール高原に源を発した大河アムダリアが、大きく蛇行しながら、満々たる水をたたえて西流する。あたかもパノラマを見る様である。
その雄大な眺めにしばし心を奪われていると、機は突如としてヒンドウクシュの峨々たる岩がん塊かいの上すれすれを飛ぶ。エアポケットでもあったら一巻の終わりである。こわごわ眼下に目をやると、一木一草とて生えつく事を頑なに拒んだ山さん塊かいと山塊の間の峡谷に、ささやかな雪解けの水を集めて流れる川筋が目に入る。その川筋の所々に緑地帯が見え、その近くの岩肌にしがみつくかの様に、十数個の家らしき土つち塊くれの群が見える。
人の住み様もないヒンドウクシュの山頂近くに僅かの緑地帯を求めて人が生活しているのが、不思議にさえ思える。明日のアフガンインツーリストのガイド兼ドライバーのマティン君とハイヤーでこのヒンドウクシュの中央、サラン峠を越え、眼下の峡谷を北へ抜けて、北部アフガニスタンの古代シルクロード沿いの仏蹟と古代文化の遺跡を尋ねて、広漠たるステップ地帯をドライブするのである。思っただけでも心が弾む。
やがて機は、ヒンドウクシュ山脈を一飛びし、南麓の平原地帯の上空にかかる。降下の為、急に機首を下げる。離陸後四十分、アフガニスタンの首都カブールの飛行場に着陸する。サマルカンドの空港で、チッキにした大小二個のバゲッジもちゃんと届いている。入国、通関等の所定の手続きを済ませて待合室に入ると、アフガンツーリストの係員が愛想よく出迎え、差し廻しのハイヤーでホテルへ向かう。20分くらいでカブール市の北東部高台にある、この国では一流のコンチネンタルホテルに到着する。早々にチェックインを済ませて、ホテルの中にあるアフガンツーリストのカウンターで、早速明日からの旅行のスケジュールについて打ち合わせをする。あらかじめ、JTBを通じて予約してあるので、話はスムースに進行する。
やがて明日からの私の旅行の2回目お供をするドライバー兼ガイドの背高ノッポのマティン君が、人なつっこい顔を見せる。明日の出発時間午前7時ジャストを約束して私は部屋に入る。9月26日午前6時30分、コンチネンタルに朝食を済ませてロビーに行くと、顔見知りのボーイが色々と世話を焼きたがって、少々有難迷惑な気がしないでもないが、喜んで好意を受ける事にする。
約束の時間に20分程遅れてマティン君が到着する。ボーイは、「ミスターフジモトは早くから待っているのに、遅れるとはけしからん。」と、えらい剣幕でドライバーのマティン君にまくしたてる。これには私も少々迷惑する。サービス過剰をたしなめ、マティン君の機嫌を取り成し、車上の人となる。車はカブール北部郊外のハイール・ハナ峠を一気に走り抜け、コヒダマン平原の中央を北へ通ずるハイウェイを走り、スピードを上げる。早朝の為か、まだ車も駱駝の行き交いも少ない。ハイウェイの両側には、葡萄畑やメロン等の畠が続く。
このコヒダマンは、アフガニスタンにおける葡萄やその他果実の名産地として知られている。9月は丁度これら果実の収穫期で、道脇の畠にはメロンや箱詰めされた葡萄が山積みされ、出番を待っている光景が至る所に見られ、又壁に丸い穴が蜂の巣のようにあけられた泥造りの小屋が見られる。干葡萄造りの為の乾燥小屋である。
壁にあけられた無数の穴は、葡萄をかける竿を通す穴で、通風も兼ねているとの事である。時間がたつにつれて、葡萄の箱詰めやメロンを山積みにしたトラックが、集団で駆け抜ける。マティン君の話では、パキスタンやインドへ向かう輸送車だそうで、アフガニスタンは国土の殆どが山岳地帯で、その上に地盤がもろいので、鉄道の布設が出来ない。その為、輸送は主としてトラックが使われ、比較的近距離の地域の輸送には、駱駝を使用するという事である。


※この文章は昭和60年頃に行った卓話をもとに作成したものです。