エッセイ「シルクロードを行く」

ヒンドウクシュ山脈を越えて(4)

2005/04/06更新

翌朝、まだ明けやらぬ朝のしじまを破って、朗々とコーランの詠誦が流れる。私は、宿舎のキャラバン・サライのパオ (モンゴル風の宿舎) のベッドの中で、神聖な砂漠の朝を迎える。
中庭では、マティン君が、数人の男達とメッカの方角に向かって、朝の祈りを捧げている。ドライブの途中、時々車を止めて姿を消すので、初めはトイレかなと思っていたが、それは、彼が一日数回捧げねばならない、アラーの神への祈りであった。彼も熱心なイスラム教徒だったのである。
乾燥地帯のこの地では、今朝も紺碧の空に雲一つない。朝食を済まして中庭へ出ると、マティン君は、愛車の点検に余念がない。写真撮影の為に、障害にならぬ様に、フロントガラスをごしごし拭き上げている。「イスラムアレークン」と言葉をかけると、「アレークン」とニッコリ白い歯を見せる。
マティン君は優しい23才の好青年である。6時55分、キャラバン・サライを出発し、ハイウェイをやや北よりに西へ20分、古代バクトリアの首都、バルクに着く。
紀元前329年から327年に、アレキサンダー大王は、この地にアレキサンドリアを建設し、ここを拠点として兵を養い、周辺の都市を統一しながら、この地方が良馬 (競争馬サラブレッドの原種と言われる) の産地であるのに目を付け、騎馬軍団の再編成を行ったと言われ、又、ロクサネー王女とのロマンが生まれたのも、この地であると伝えられる。


アレキサンダー大王の没後、グレコ・バクトリアの支配の下に、ギリシア文化の花を咲かせたが、その後紀元前150年、バクトリア王国は、トカラ族によって滅ぼされ、一時大月氏に服従するが、前1世紀末頃より、クシャン朝の統治するところとなり、第3代で、名君の誉れ高いカニシカ王の庇護の下に、多くの仏教寺院が建立され、隆盛を極める。
630年頃、この地を訪れた玄奘三蔵の西域記にも、「バルクには、花が一杯咲き乱れ、小王舎城と言われ、伽藍百余ヵ所、僧徒3000人、城外の西南には、先王の建てた大伽藍があり、仏像、特に毘沙門天が素晴らしく、その伽藍の西には、200余尺 (60メートル) のスツーパーがあり、又、精舎があった…」と、当時の仏教興隆の様を語っている。
その後7世紀に至り、アラブの侵入により、仏教寺院は、跡を留めぬまでに破壊される。そして、13世紀 (1220年) には、今度はモンゴルの青い狼と言われたジンギスカンの徹底した破壊と殺りくとによって、全ては廃墟と化し、その後も、常にイスラム各王朝の抗争の舞台となり、近世に至るのである。
この長い歴史の興亡を語るかの様に、街の北側に、バラ・ヒサール (大城塞) の廃墟の跡がある。
このバラ・ヒサールは、石と土で固められた、無残に破壊された城壁に囲まれ、広大な白々とした砂地である。荒廃したこの地域は、墓場となっていて、石ころを置いた形ばかりの墓が幾千も無秩序に、砂の中に散乱し、鬼々迫るものを感じる。まさに、死の世界である。今、杖をついた老人が1人、この城塞の砂地に、音もなく降り立って、とぼとぼといづこともなく立ち去って行く。
その老人までが、この世の人とは思われず、亡霊が黄泉 (よみ) の国を彷徨い歩いていくのではないかと思う。気の迷いか、城塞で殺りくされた人々の慟哭の声が聞こえる。
突然、旋風が起こり、砂塵が舞う。あわてて、車の中へ駆け込む。かつて玄奘三蔵法師をして、小王舎城と言わしめたこのバルフは、荒れ果て、殆ど廃墟に等しく、特に、仏教遺跡は見るべきものとてもなく、回教寺院に付属して、スツーパーの名残りを僅かに留めるばかりである。半ばくずれ落ちたブルーのモスクの庇の陰に、白い鳩が4、5羽群れていて、何かあわれをそそる。
ハイウェイに出て右折する。5、6分程走ると、左側にファイヤーテンプルと呼ばれる1基のモスクがある。ジンギスカンの部下達が、バルフの住民を、女、子供共々この寺院に押し込めて、焼き殺した所だそうである。心なしか、土で出来た丸屋根のこの寺院は、黒くくすんで見える。
ハイウェイをこのまま真直ぐ西へ行くと、シバルガン、マイマナを経て、古くからキャラバン・サライで栄えた、イランとの国境の町ヘラートへ至る。更に、イラン国境を越えて西へ進めば、メシェドからテヘランへ通ずるのである。即ち、この道は既に紀元前3世紀頃から、東西の文化、経済のかけ橋として栄えたシルクロード (絹の道) である。
色々の価値ある交易品を駱駝の背に満載し、誇り高いキャラバン隊の男達が、繁く行き交ったであろう昔日の光景が、走馬灯のように私の脳裏をよぎる。
バルフは、このシルクロードの要衝にあって、東洋、西洋、インドの宗教、経済、文化の交流の接点として、隆盛を見たが、15世紀頃、海上ルートの発展と共に衰微し、滅び去ったのである。


 車はハイウェイをUターンして、左手に先程のバラ・ヒサールの堡塁を望みながら、マザーリシャリフのブルーのモスクの前を通り抜け、一路次の訪問地ソ連との国境の町、クンドウズへと車を走らせる。10時15分、タシクルガンに到着。ガソリン補給を兼ねて小休止する。
私が、キャラバンルートのステップ地帯を直行して、クンドウズへ抜けるコースを切り出すと、マティン君は、このキャラバンルートは、観光ルートに指定されておらず、道路が悪い上に治安が維持されていないので、トラブルが起こる危険がある。
昨日の道をプリホムリまで引き返して、そこからクンドウズへ迂回せねばならないと言うのである。マティン君の意見に従うよりほかない。
子供の頭ほどもある大きなザクロを買って来て、私にも一つくれる。割ると、ぎっしりと詰まっている赤い大きな粒々の実が、バラバラとこぼれ落ちる。
口に入れると、甘酸っぱい味が口一杯広がる。大きくて果汁が多く、食べがいがある。マティン君は、ザクロの外皮に歯型をつけて、チュッチュッと音をたてて吸いつき、アッという間に一つをたいらげる。
私にも、もう一つ食べないかと差し出すが、食べるのに煩わしいので辞退する。ザクロはこの辺の名産だと、マティン君は自慢する。
車は、昨日のホルム峡道を抜け、サマンガンからプリホムリを迂回する、クンドウズへの大波の様に起伏するハイウェイをひた走りに走る。クンドウズでは、京大の樋口隆康教授のグループが仏蹟の発掘作業をしておられる。明日は、樋口先生とヒンジャンホテルでお会いする手はずである。


※この文章は昭和60年頃に行った卓話をもとに作成したものです。