質屋の歴史

質屋は萬商業の中でも最も古いものの一つに数えられ、その起源は洋の東西を問わず人類が珍しい貝類等を通貨として使用していた頃にまで遡るのでないかと思われます。我が国で質屋が初めて文献に出てくるのは、鎌倉の初期の事です。鎌倉初期の有名な歌人である藤原定家の日記「明月記」の中で中世の質屋の呼名である土倉(とくら)と言う文字が初めて見えます。これは、文暦元年(西暦1234年)に書かれたと言われておりますので公式には質屋の歴史は770年余と言う事になる様です。

文献によりますと、質屋業は酒造業つまり「造り酒屋」の兼業として始められましたが、中世の日本の金融経済は酒屋兼業のこの質屋が支配していたと言われています。この土倉、つまり質屋は、鎌倉・室町・安土桃山時代と戦国動乱の中で幕府が度々行なった徳政による借金棒引や、土一揆による質蔵の打ちこわし等の様々な苦難を乗り越えて、江戸時代に入って漸く世情が安定すると共に経済活動が活発となり質屋も安定期を迎える事になります。

そして寛永年間に至って質屋の機構はほぼ完成し、現在の質屋営業法の基礎となる質屋取締令が施行され、それまで使われていた土倉という名称が質屋に改められます。その後元禄年間に入って経済の高度成長によって質屋の最盛期を迎え、両替商つまり大名質、旗本・御家人を対象とした質屋である札差等の制度が確立致します。又、一方庶民生活の中に質屋が定着するのもこの頃からです。

時代が移って享保年間になりますと、ご存知名奉行大岡越前守の登場となりますが、1716年に将軍吉宗によって断行された享保の改革によって、それまで “消費は美徳なり”と言われた時代から一挙に“物を大切に致しましょう”と見事諸事節約の時代に早変り世はまさに冷込みムードの不況時代がやって来ました。この不況を反映してか江戸市中の質屋の軒数が1500軒から2700軒余に急増致します。当時江戸の人口が75万人と言われておりその中で質屋の軒数が2700軒余、それに対して現在の東京の人口が1200万人としてその割合からすると質屋の軒数は4万3千軒位あってもいいわけです。ところが現在の東京都の質屋の軒数は約600軒です。ですから、当時の質屋の利用度が如何に高かったかをうかがい知る事が出来ます。

ところがその後、質屋取締令の強化と相まって弱小の質屋は漸次淘汰されて、明治維新を迎える事になるのです。

それまで質屋が我が国唯一の金融機関でありましたが、明治に入りヨーロッパの新しい金融制度が取入れられ、三井・住友・鴻池等の大店の質屋は銀行又は倉庫業に転業し街質が庶民を対象として営業を続け今日に至ります。

質屋業が、庶民金融の中で盛衰を繰返しながらも健在しているのは、原始的とさえ思えるその素朴さの中に捨て難いものがあるからだと思います。
当店は、その社会性に応えることを第一義としてこれからも営業してまいります。